ドッキリ!実話

懲罰的慰謝料

― 加害者への制裁・アメリカの場合 ―

  ジョン・グリシャムの法廷ミステリー『ザ・レインメーカー』(邦題『原告側弁護人』)にこんなシーンがあります。
  ある若い男性が急性骨髄性白血病で死に瀕しているというのに、生命保険会社は保険金を支払おうとしません。
  生保の大弁護士団VSロースクール出たての新人弁護士との間で、熾烈な法廷闘争がくりひろげられます。最後に、保険会社の元査定担当者で副社長の愛人だった女性が内部告発的な証言をし、形勢はがぜん被保険者側に有利に傾きます。
  証言席で女性は、保険金を支払わなかった理由をこう説明します。

「わたしは当時の会社の方針にしたがい、拒否通知を送りました」
「なぜです?」
「なぜ? すくなくとも1991年については、あらゆる請求を否定することになっていたからです」
「あらゆる請求を?」
「ええ。まず最初にあらゆる請求をとりあえず拒否し、ついで正当に思える少額の請求にかぎって審査するというのが、当時の会社の方針だったのです。………」

(ジョン・グリシャム 白石朗訳『原告側弁護人』新潮社刊より)

  保険会社と対峙するとき、私はこのシーンをしばしば想起します。
≪はじめに支払拒絶ありき≫
これが保険会社共通の潜在的なポリシーなのです。
最近、損保の出し渋りを痛感します。金融ビッグバンの1つとしてリスク細分型の保険が開発され、保険料が自由化されました。顧客は安い保険料で自分にあった補償がうけられそうなものを選びます。保険料収入がきびしい状況に追いこまれているせいか、出し渋りがひどくなっているように思います。出し渋りは被害者の泣き寝入りを招きます。出し渋りをさせないためにはどうしたらよいか。
ひどいケースには、懲罰的慰謝料を損保に課すことが考えられてもよいと思います。
懲罰的慰謝料とは、アメリカのPL(製造物責任)訴訟などでよく陪審が認めるものですが、メーカーが欠陥を知りながらあえて放置し、その結果、消費者の人命がおびやかされたような場合、賠償義務者に課せられる制裁的意味の慰謝料です。
「ピント事件」と呼ばれるケースがあります。フォード社製のピントという車のオイルタンクには欠陥があり、追突されると炎上するおそれがありました。そのことをフォード社は知りながら、市場に出回っているすべての車を回収して防火装置をつけなおすよりも、事故が起きたらそのつど賠償金を払うほうが安上がりだと考え、放置していました。改良費用は1億3700万ドルかかるのに対し、180名が死亡し180名が火傷したとしても、損害賠償額は4950万ドルですむという計算です。
案の定、事故が起き、13歳の少年が大やけどを負います。賠償を求めた訴訟の過程で、フォード社の損得勘定を分析した内部文書が明るみにでます。1978年、フォード社は、1億2500万ドルの懲罰的慰謝料を含む合計1億2800万ドルの支払いを、カリフォルニア州の裁判所の陪審から命じられました。この額はあまりにも過大だったため、裁判官によって660万ドルに減額されましたが、それでも巨額です。
日本ではどうか。
アメリカの裁判所が日本企業に対し命じた懲罰的損害賠償の取立てを、日本で求めた事案があります。最高裁は1997年7月、日本には懲罰的慰謝料はなじまないとして請求をしりぞけました。日本の公序良俗に反するというのが理由です。
私はそうは思いません。公序良俗というのも時代とともに変わります。司法制度の改革も含め、今日ほど日本社会全体がアメリカナイズされてきているなかで、アメリカの懲罰的慰謝料をとり入れてはいけないという法はありません。
被害者の尊厳を傷つけるほどに勝手なことをいう保険会社には、懲罰的慰謝料を課してもよいと思います。金額はアメリカほど巨額でなくてもよいですから。
慰謝料に制裁的意味をもたせるのは反対だという人がいます。そういう人は、慰謝料とは、被害者のうけた精神的「損害」に対するものだという観念に束縛されすぎているように思います。まっとうな被害者を保険金詐欺師呼ばわりして支払いを拒む損保には、制裁を課さないかぎり被害者は救済されないでしょう。
「懲罰的慰謝料なんかがバンバン認められたら損保はつぶれてしまいますよ」ですって?
「だったらそれを命じられないよう、払うものをさっさと払ったらいいでしょ?値切り倒そうとして被害者を苦しめたら、その報いをうけるのも仕方ないじゃありませんか」

(完)

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